
高校生になってから、夢を追う私と親との間には、当時かなりの溝があった。
ほとんど会話のないその息苦しい環境を変えたかった私は、実家を出るため、バレエをしていない時間は中華料理店でサービスのアルバイトをしていた。
バレエでプロになるか、別の道を歩まなければならないのか、選択しなければならない。
人を好きになることも知らなかった。
ネガティヴ思考で優柔不断な勇気の持てない自分。
欝々とした自身のことをまったく好きでなかったので、他の人を見る余裕などまるでない。
それは人のいいところを見つけられないということでもあった。
びっくりされるが、私が初めて人を好きになったのは20歳である。
それまでは毎日自分のことだけで精一杯だった
頭の中は常にバレエで生きていけるのか、ということでいっぱいにしていた。
進路を決める際、バレエの専門学校へ行くことを、通っていたバレエの先生から否定され、親の強い望みで大学に進学する。
バレエの公演の練習があるため、入学初日も欠席。
全く行きたくなかった。
日本バレエ協会のオーディションを受け、慣れていない環境になると、普段の力を出せない自分の未熟さを痛感する。
公演では、ソリスト(一人で踊る人)ではなく、群舞が多かった。
バレエ教室でこどもたちに教えたり、自分で振り付けした作品を、広場やライブハウスで踊って少しのお金を得ていた。
バレエ団に入るには年齢制限があるため、残された時間はあとわずか。
実家を出てから、アルバイトで食いつなぐ生活。
バレエの収入では到底生きていけない。
本当にお金がなくて、食事というまともな食事を取ることができなかった。
ひとつのカップラーメンをくだいて、3回に分けて食べるほどお金がなかった。
(このままでは生きていかれない..)
見つめたくなかった現実を見たとき、自分の実力を思い知った。
文字通り、バレエが人生のすべてだったので
夢と一緒に、それまで生きてきた過程も失ってしまったような気がした。
死んだような日々に
何もする気が起きず
しばらく死んでるのか、生きてるのかわからず、
一人地球から取り残されたような歳月だった。
夢がない日々を生きることが本当に苦しかった。
22歳の冬、母親が就職しろと口すっぱく言うので、
全く気がのらなかったが、面接に行くことにした。
うつろな日々に、どこか人として欠如してしまった自分を、少しは改めなくてはと思っていたのかもしれない。
初めて就職したのは、医療業界で
仕事とは何か、社会とは何か、驚くような出来事もあり
これまで知らなかったさまざまなことが毎日起こった。
バレエは続けていたが、十数年間行ってきた食事制限をやめ、自分で料理をすこしずつするようになっていた。
食物アレルギーがいくつかあるので、自分で作ればそれらを除いて作ることができる。
そうすれば、毎食おいしく食事をすることができる。
無理な食事制限から解放され、好きな料理を作ることに次第に夢中になっていった。
仕事の方は、何事もやり始めると、どこかにおもしろさを見つける私は、その仕事での楽しみを見つけていた。
しかし違和感が日に日に大きくなっていった。
この仕事は素晴らしい。
助けを求める人たちに少しでも何かすることができる。
でも
この仕事は私でなくてもいいのではないか。
誰かができることではなく、自分がやりたいことをしたい。
もう出来がっているものではなく、自分で考えて生み出したい。
毎日のルーティーン作業をしている時、疑問が確信に変わる。
かねてから、時間があれば自宅で料理を研究しまくっていた私は、これを仕事にしたいと願った。
その時、調理の世界に入ることを決めたのだった。